顔と名前しか知りません

タイトルは自戒

元ドルオタの承認欲求とプレゼントのはなし

 

この記事は2018年9月に公開した後、すぐに下書きに戻していたものです。

5年(?!)を経て自戒の意味も込めて、加筆・修正はほとんど行わず、当時のまま再公開します。

読みにくいですがお付き合いくださると嬉しいです。

 

 

前回の記事の閲覧、スターありがとうございます。

まさか反応をいただけるとは思ってもいなかったのでとてもうれしかったです。

本来3日坊主な私ですが書き続けるモチベーションになります。

 

今回は前回記事でチラっと触れていたプレゼントのはなしです。

 

先にざっくりいうと「元ドルオタが承認欲求に狂ってプレゼントを贈るも、諸々を考慮して贈らない派に落ち着いた」というものなんですが、プレゼントを贈られる方や特定の人及びその行為などを批判・否定するなどの意図はなく、あくまで私と私の推しの場合であり私の主観によるおはなしです。

文末にはすべて(※個人の感想です)がある体で読んでいただけると幸いです。

 

全文書いて改めて見返すと、言いたいことがとっ散らかっていて自分でもよくわからない記事になってしまいました…。まとまってないですが最後まで読んでくださると嬉しいです。

 

私は推しに出会う前、アイドルを応援している所謂ドルオタでした。

 

私がペンライトの光や歓声を届けると、アイドルが歌って踊って、笑って、時に一緒に泣いてくれました。

 

また物理的にもCDを複数枚購入したり、出演した番組等に感想や感謝のメールを送り、公開垢で積極的に公式名やハッシュタグを使いツイートをするなどして、ファンとして彼らにお返しできることがあればやれるだけしていました。

オリコンビルボードなどのランキングに反映され、次のお仕事に繋がったときの嬉しさはひとしおです。

 

彼らは私の愛は確かに彼らに届いていてお互いに心を通わせているのだと思わせてくれました。

アイドルとファンの「愛の交換」が成り立つ関係が好きでしたし、「愛の交換」をすることで私は「ファン」であることを自認していました。

ファンとアイドルはある意味「共依存」で例え外野がそれは幻想だと言おうと私はその関係をホンモノであり尊いものだと信じていました。

 

俳優さんを好きになって戸惑ったのは私から推しへの想いがすべて一方通行になってしまうことでした。

 

それまで当たり前のようにしていた「愛の交換」が成り立たなくなったのです。

 

現場に行くのにも円盤を買うにも万単位の費用がかかり、ドルオタ時代の1枚1500円ほどのCDに比べて限界がありました。

またオタク同士監視しあうような独特で閉鎖的な空気感*1*2から公開垢で積極的に公式名や推しについてツイートするのもはばれました。

現場ごとにお手紙は書いてましたがどうしても一方的なもののように感じ、むしろ以前より詳細に自分の想いを綴れてしまうからこそもどかしいものがありました。

そして推しはファンに対してなにか言及することより舞台上からすべてをお返しするような態度で示すタイプの方で*3、手紙を嬉しいと感じてくれているのか、そもそも読んでいるのか、それを知る術を私は持ち合わせてはいませんでした。

 

舞台の上で他人の人生を生きる推しも好きでしたが、アイドルと同じように、推し本人が笑ったり泣いたりしてくれる姿を観たかったのだと思います。

東京ドームの天井席から見る彼らより、たった数メートル目と鼻の先にいる推しの方がよっぽど遠い存在に感じていました。

心を通わせたかったとまではいきませんがそう思わせてほしかったというのが正しいのでしょうか。

私はアイドルと同じことを俳優である今の推しに求めていました。

俳優さんはお芝居を見せることが前提の仕事であり、ファンと触れ合うことは前提ではなく向こうの善意でしてくださっているだけでだということをわかっていませんでした。

 

次第に推しに対する理想と妄想で出来た推しの顔をした推しではない虚像が私の中で肥大化されていきました。

推しのブログや過去のエピソードから自分の妄想を膨らませて「推しは生きるのがすごく不器用で、繊細で、傷つきやすく、きっとファンの賞賛がないと死んでしまう人なんだ。」と自分の都合の良いように捻じ曲げたあげく推しのことを知った気になっていました

 

推しにとって私が何者でもないということがつらくて己で打破しようとした結果が推しの虚像モンスターの爆誕です。ストーカーの心理ってこれに近いのかなあ・・・

 

 

そして行き着く先が高額プレゼントの投下になるわけです。

 

プレゼントを贈って私信を得ることでアイドルの彼と同じように「愛の交換」を成り立たせようとしました。

最初は冷静に「これは自己満足な行為である」と自分に言い聞かせていました。推しの為ではなく自分の為。私自身が推しの喜ぶ顔がみたいからと。

 

ですがそんな冷静な気持ちとは裏腹に何をあげるか考えている間や推しの反応を想像してはふわふわした気持ちに浸っていました。

これだ!というものが見つかったときの高揚感は今でも言い表せないです。

ほとんど脳内麻薬といいますか、もう脳の快楽物質という快楽物質がドバドバなんですよ。

自家発電なんでコスパはいいですけど全然おすすめできません。

喜ぶ姿は己がつくりだした虚像モンスターであり、推し本人ではないですから。

ある意味推しのこと全く見てなかったんですよね。これに振り回されていた己…いや~恐~~~。

 

そして人間*4というのは相手に見返りを求めてしまう生き物なんです。

とくに私のような器の小さい人間は相手からのレスポンスを期待せずにはいられないんですね。私信を期待していたわけです。

 

結論から言うとなかったのですが。

 

プレゼントを贈ってからの私の状況ですね。

まず最初は高揚感でいっぱいになります。思い切ったことをしたなあ!てむしろウキウキしてました。よろこんでくれるかな~とか。

しばらくして私信がないとなってくると猛烈な自己嫌悪と後悔の念がぐるんぐるん襲ってきます。

「なんであんなものあげたんだろう、きっと推しに重いオタクって思われた、推しに嫌われちゃったんだ、気持ち悪かったかな、あんなものいらなかったかな、だから私はだめな人間なんだ」という感じです。

 

それから仕事や私生活もすべてに手が回らなくなりました。

仕事中も思考が停止してケアレスミスも多くなりましたし、一人になると自己嫌悪と自分が推しにとってどんな存在かを考えてはボロボロ涙がでて止まらなくなりました。

他界隈で同じように推しごとをしているフォロワーさんに泣き付いては慰めてもらって(お互い病んでいる同士なのでただただしんどいという会話のループと最終的に推しは最高という結論で終わる)なんとか1日を過ごすような状況でした。

 
 
 

そんな散々たる状況を救ってくれたのはなんと、というかやっぱり大好きな推しでした。

 

ブログと雑誌に「手紙はすべて読んでいること」と「手紙がうれしい(意訳)」とお話ししてくれました。

どちらも何度も何度も読み返しました。今度は嬉しくて涙がとまりませんでした。

やっと憑き物が落ちるというか今まで暗雲立ち込めて真っ暗だった思考に光が差し込むようにスッキリしましたし、冷静になることで自分は推しと向き合わずに自分で作り上げた虚像に依存していたことに気づきました。

 

 

モノという形のプレゼントをあげなくても(おこがましいかもしれませんが)お手紙が何より推しの活力になっていたんだ、と。

 

自分が出来る限り劇場で推しのお芝居を見て幸せをもらって、気持ちを手紙にしたため届けて、それが推しにとって少しでも力になっていたとしたら、これが「愛の交換」にあたるのではないか

 

推しからのことばで不思議なくらいストンと腑に落ちました。

 それまで「推しにとって何者でもなかった私」はやっと自分が最初から推しに肯定されている存在=ファンであると思うことができました。 

 

例えばあの時私がもっと気の利いたモノをお渡しできたり、推しがプレゼントを身に着けて私信してくれるタイプの俳優さんであったらきっと違った考えを持っていただろうなと思います。

 

だけどそれでよかったです。

推しとの距離を見誤って推しに強く依存することになっていたと思います。

それこそ、今頃ストーカーに近い存在になっていたかもしれません。 また今回のことで推しとの向き合い方も少しだけ整理できたような気がします。

 

相手への見返りを求めないのが無償の愛というのなら私の辞書には残念ながら無償の愛などないのだと思います。

推しへの愛と書かれた免罪符を掲げ自己愛以外の何者でもないものを推しに押し付ける行為は、それはもう暴力です。

そもそも愛は免罪符になりえません。

 

もっとフランクに「よっ!」とお渡しできる精神があればいいのですが、私はどうやらこのことになると情緒不安定になるのだと今回のことで骨身に染みました。

 

 

ここまで長々と書きましたが推しごとについてはもう気の持ちようですよね。

 

私はあげない派と今は思ってますけど、ぶっちゃけプレゼントに関してもあげたければあげればいいし、あげたくなければあげなければいいんです。

よろこんで使ってくれるならこっちも嬉しいしあっちもうれしいし同担がどう思うかは置いといて双方ハッピーじゃないですか。

 

ただオタクが念頭に置いておかなければいけないのは「向こうはこちらを否定・拒否できない」ってことです。

相手は人間です。嫌だなあとか気持ち悪いなあって内心思っている可能性は残念ながらゼロではないわけです。

その胸の内は永遠に知る由もないですが。

 

私も推しが「お手紙うれしい」と話してくれたからこそ、肯定された気持ちになっていますけど、本当の本当に嬉しいのかとか更に言うと本当に読んでいるのかは確かめようがないわけです。

仮に読んでくださっていたとしても「私の手紙」を読んで嬉しいのかはわからないですしね。

読まずに頭数だけ数えてくれればもうそれで十分です。いやうそつきました。できれば読んでもらえるとすごく嬉しいです。

 

推しの心の中や本当の性格については永遠に答えは出ないので確かめようがないし、邪推するものでもありません。

ましてや前の私のように捻じ曲げて理想を押し付けるものでもないです。

 

 

オタク*5は推しについて「顔と名前」しか知らないのです。

 

 

そのくらいの心持ちでいることが自分の為だな~と思います。

 

しかし私は推しの名前と顔だけではなくなんと演技が上手いことも知っています…!なんて喜ばしいことなのでしょう!ハッピー!

 

来週末に推しの舞台があるのでそれまでに(おこがましいですが)少しでも推しの活力になれるようなお手紙を書こうと思います。

 

 

みなさま良いオタクライフが送れますように。

 

 

 

 

 

*1:これは俳優さんや周りの環境によって違うのかもしれませんが

*2:ある時公式サイドから「できたらハッシュタグを使って感想を呟いてね!」というアナウンスがあり素直に実践しましたが、検索するとごく僅かな人しか利用していなくて吃驚しました。

アイドルを好きな時はとにかく彼らの知名度が上がってほしい・彼らの良いところをたくさんの人に知ってもらいたいという思いがファンの間では強かったのですが、こちらの界隈は一定数推しに売れてほしくない…というと語弊がありますがファンが増えるのをあまり快く思わない方が多いことにギャップを感じました。

ファンの母数が少ないのがまたはばかれる原因なのかもしれませんが。

*3:だからこそ好きなのですが

*4:主語が広すぎますね。私の場合はです。

*5:これも主語が広くてごめんなさい。私のことです。