推しはオタクを看取ってくれるわけじゃない
お久しぶりです。
推しの大きな舞台が終わり、季節の変わり目でもあってかなんだか本当に区切りの時期だなあと感じています。
私事ですが(最近の推しのブーム一文)、先日救急車で緊急搬送されることがありました。
今は完全復帰とまではいかずとも普通に過ごせています。
深夜自宅で倒れて、救急車で運ばれながら遠のく意識の中「あ、今ここで死んでも推しには全く関係ない出来事として終わるんだな」って自分が死ぬかもしれない状況なのにハッキリ思ったんですよね。
いやそもそも認知すらされてないし、ここ最近なんてお手紙もまともに出せてないオタクなんて、推しからしたらそもそも知らない存在なんですよ、私って。
すごく目が覚める感覚でした。(実際は遠のいていました)(渾身の身削りギャグ)
自分がオタクをする上で認知を目標にしてたわけでもないんですけど、こんなにも「推しはオタクを看取ってくれるわけじゃない」んだなあて痛感したというか。
だって他人ですもん。
推しとオタクなんて。
私は推しと繋がりたいってよく言うんですけど、それは所謂「繋がり」ではなく、推しの舞台上の姿を見たりブログやインタビューなんかを読んだときに、「ああ、同じ気持ちなんだな」とか「私たち(推しと対オタクの概念として)相思相愛だな」「通じ合えたな」って実感を持って感じることがいとおしくてたまらないというか。
まあ全部私のお花畑なオタク脳の産物なんですけどね。
実際はこんなにも、
こんなにも他人なんだなあ
って。
でもそんなことを痛感すると同時に「今やってる舞台の大千穐楽を見るまでは死ねない」と食いしばりながら無事に生還できたので、オタクはやっぱり馬鹿みたいに推しに生かされてもいるんですよね。
私の人生を彩ってくれるのは間違いなく推しで、活力で、今現状は生きる意味。死ぬかどうかの瀬戸際でみっともなく脳裏に浮かぶくらいは。
推し、世界一大好きな他人でいてくれてありがとう。